- 当社が何のために存在し、ここで働く者に何を求めているのか。その根底には「重力に逆らい正しさを貫く」という確固たる理念がある。ここで言う重力とは、自分に負けて楽な方向に進もうとする堕落、自己中心的な発想、表面的な理解で済ませる妥協、そして周囲の空気に同調してしまう群集心理のことだ。当社はこれまでそうした数々の重力と戦い、勝利し続けてきた希少な企業である。日々の業務において重力に逆らい本物のプロとしての正しさを貫くためには、まず自分の都合や保身を捨て、自身の行動が顧客や仲間の未来をどう良くするのかという他者への貢献視点を持たねばならない。表面的な作業で妥協せず、業務の本質的な主旨を常に問い続け、目的のために自律して動く者だけが真の価値を生み出すのだ。また、手っ取り早く正解を求める思考停止という重力に逆らい、職人的な学びを身につけてほしい。成長への最短経路は周囲の優れた仕事を徹底的に観察し真似ることから始まる。先輩の行動や記録、技や間合いを見て盗み、実践を通じて直感的に感覚としてコツを掴み取ることだ。知識や理解は、その掴んだ感覚を支え再現性を高めるためのものにすぎない。学びの深さを決めるのは質問の質であり、「自分はこう観察しこう動こうと考えたがどうか」と、常に自らの仮説を持った質の高い問いを投げかけることが求められる。さらに、自社の商品やサービスに対し単なる仕事として距離を置こうとする重力に逆らい、自分自身が一番の熱狂的なファンになることだ。自分が絶対に購入したい、大切な人に心から薦めたいと本気で思える深い没入と熱量だけが人々の心を動かすのである。そして何より、我々は互いを高め合うプロ集団であり、傷を舐め合うための仲良しグループではない。不満を言い合い、共通の敵を作ることで群れる群集心理に負けてしまう癖があるならば、今すぐ完全に捨て去るべきである。会社や経営陣、他部署を敵に仕立て上げ、陰口や愚痴で連帯しようとする行為は、当事者意識を放棄し最も強い重力に屈した極めて幼稚な振る舞いだ。組織の空気を腐らせ仲間の成長を阻害する「重力に負ける姿勢」は一切許容しない。自らの手で感覚を磨き、商品に誇りを持ち、重力に逆らいながら成熟した一人の大人として仕事に向き合うのだ。この哲学に共鳴し、重力との戦いに挑む覚悟がある者に対してのみ、会社は全力で成長と活躍の舞台を約束する。(10/31)
- 今回の敗因は極めて明確である。突き詰めれば、組織として「割り算」ができなくなってしまったことに尽きる。私はこれまでも、物事を「+・−・×・÷」の四則演算で捉える思考法を当コラムで幾度となく説いてきた。もっと頑張れと精神論で投入量を増やすのが足し算、無駄な工程を削ぎ落として筋肉質にするのが引き算、効率よくスピーディーにレバレッジを効かせて一石二鳥を狙うのが掛け算、そしてあえて歩みを止め、見過ごしていた基礎や細部へ時間を惜しまず丁寧に向き合うのが割り算である。一般的なビジネスでは引き算と掛け算こそが効率化の代名詞とされ、足し算や割り算は一見すると非効率の極みに映る。しかし、長期にわたって勝ち続ける強固な組織を築くためには、この割り算による丁寧な点検と深掘りのプロセスが絶対に不可欠なのだ。問題は、今回私たちが割り算の重要性を忘れて突き進んだわけではないという点にある。現場がそれを実行するために必要な時間的・精神的な余白を完全に奪われ、そうせざるを得ない極限状態に追い込まれてしまったのだ。その元凶こそ、組織の計算式を狂わせる者の存在である。チームが心血を注いで積み上げた成果に「×0」や「×0.5」を掛けて瞬時に無力化し、あるいは苦労して引き算したはずの無駄を勝手に足し算して仕事を増殖させる者が一人でも混ざれば、現場はその尻拭いとリカバリーに追殺される。その結果、最も必要な割り算をする余裕を根こそぎ奪われ、組織は疲弊と自滅の坂を転がり落ちていく。さらに言えば、組織を機能させるには四則演算というリソース操作に留まらず、全員の向きを揃える「ベクトル」の概念が決定的に重要となる。どれほど掛け算の能力に長けた優秀な人材であろうと、ベクトルがわずかでもズレていれば推進力は相殺され、逆を向いていれば組織を全力で破滅へ引き戻す最悪のブレーキと化す。だからこそ経営者は、計算を狂わせベクトルを乱す存在を厳格に改善させるか、あるいは組織を守るために即座に排除するという冷徹な決断を下さねばならない。逆に、同じベクトルを共有し、チームの計算式を何倍にも引き上げてくれる真の仲間が加われば、組織は驚くべき速度で好転する。そして基本たる四則演算とベクトルを盤石にした上で、経営には時として「微積分」の視点が不可欠である。決算書や表面的な数字に現れない組織の微細な歪みや変化の傾きを微分によって手遅れになる前に鋭く察知し、日々の地道な割り算の積み重ねを積分によって強固な信頼や誰にも模倣できない企業文化という圧倒的資産へと昇華させるのだ。計算を狂わせるノイズを容赦なく排除し、ベクトルを一つに束ね、微積分の洞察力をもって最高純度の計算式を貫徹する。これこそが、この手痛い敗北を糧に再び圧倒的な勝利を掴み取るための、唯一にして絶対の経営方程式である。(10/28)
- 緊急性はないが会社の未来を決定づける第2領域の業務は、正解が見当たらず目に見える結果もすぐには出ないため、誰にとっても最も後回しにされやすい領域である。目の前にある手離れのよい作業的な業務を淡々と片付ける方が、重い責任を背負い込むこともなく、深く頭を抱える必要もないため一時的にははるかに楽であることは私も痛いほど理解している。しかし、最終的な責任から逃れられない立場にいる者が、その場しのぎの気楽なルーティンに逃避したところで本質的な課題は何一つ解決せず、後からさらに巨大化した苦悩となって自分自身の首を締め上げるだけだ。答えの出ない問題をただ無目的に頭の中で反芻し続ければ、それは前進のための思考ではなく心を蝕むただの悩みへと変わり、いずれ精神を壊してしまう。「仕事だけが人生ではない」「ワークライフバランスが何より大切だ」といった世間の耳ざわりの良い綺麗事は重々承知しているが、私自身は会社の売上や利益を貪欲に伸ばし、顧客や社会から真に求められる存在であると実感することによってしか決して満たされない人間なのだ。顧客や社員が去っていく現実はあまりに辛く、当社や私を嫌いながらも惰性や仕方なさで関わっている者がいる状況など耐え難い屈辱である。だからこそ、私は生半可な妥協を捨てて徹底的に結果に執着し、誰からも必要とされる強さを手に入れることでしか真の平穏を得られない。そして、この孤独で過酷な現実を戦い抜く中で、私の最大の糧となるのは他でもない、社員一人ひとりが強い当事者意識と責任感を持ち、困難から決して逃げ腰にならずに業務へ立ち向かう姿である。リスクを恐れず前に出る仲間の背中を見る瞬間にのみ、私は自らの命を削って走る意義を見出す。その反対に、誰かが保身に走り、責任を回避して逃げ腰の姿勢をとれば、私の気力とエネルギーは容赦なく搾取され、組織の士気も根底から腐食していく。誰かが放棄した責任のツケは、必ず残された別の誰かが泥をかぶって払わされるのだ。目の前の現実から目を逸らすな。作業への逃避をやめ、己の役割に対して不退転の覚悟で責任を全うせよ。我々は結果を出し続けることでしか、この場所に立つ存在価値を証明できない。(10/23)
- 本コラムの掲載が10日間滞ったという事態に対し、私は強い危機感を抱いている。理由は明白だ。日頃の業務疲労と重圧が蓄積していたところへ、季節の変わり目による急激な寒暖差、すなわちわずか一日で7℃も気温が急落するという外的要因が重なり、心身が限界を迎えて完全に悲鳴を上げたからである。様々な辛い症状が一気に押し寄せ、脳内には「何をやってもあかんわ」という無力で絶望的な音楽が鳴り響く中、私は文字通り機能停止の廃人状態に沈み込んでいた。だが、この空白を単なる天候の急変や体調不良のせいにして片付けるつもりは毛頭ない。外的要因に理由を求めるのは容易だが、事の本質は紛れもなく私自身の精神的な甘さにほかならない。良くも悪くも、人は一旦楽を覚えるとなかなか元には戻れなくなる生き物だ。それは組織の現場を見渡せば痛いほどよく分かる。入社して勉強期間や責任の軽い業務に甘んじ、その居心地の良さから抜け出せずに次のステップへ進もうとしない者がいる。あるいは、そうした部下や後輩が退職した穴埋め作業を上司や先輩が引き受けているうちに、本来向き合うべき重く苦しい業務に戻れなくなってしまう構図も全く同じだ。これこそが、人間をぬるま湯へと引きずり戻そうとする「コンフォートゾーンの重力」というものである。世間で叫ばれる働き方改革にもまさにその致命的な弱点が存在し、負荷を下げて楽を覚えた結果として、後に大きく後悔することになるのは目に見えている。もっともらしい大義名分を盾にして負荷の低い場所に安住する気の緩みこそが、成長を止め、停滞を引き起こす最大の元凶である。いかに過酷な状況であっても、これまで私は辛い時こそコラムを書き続け、前進を止めなかった。その自負があるからこそ、「今回は耐え難かったから書かない」という一度の甘えに浸ることを、他ならぬ私自身が決して許さないのだ。現在においてもいまだ完全回復には至っていないが、数日前と比べれば少しは楽になり、身体も思考も確実に動き始めている。ならば完全な回復を待つなどという生ぬるい猶予はどこにも存在しない。今持てる力を振り絞って直ちにペンを執り、自らを再び厳しい負荷の現場へ引き戻すことこそが果たすべき責務である。止まっていた空白の10日間を取り戻すべく、私は本日より再び容赦なく前進を開始する。(10/20)
- 寿司職人を目指した、ある若者の話がある。毎日皿洗いや掃除などばかりで、いっこうに寿司を握らせてもらえず、何も教えてもらえないことに嫌気が差し、エプロンをぐるぐる巻きにして一度は店を飛び出した男だ。しかし、彼はやがて現場に戻ってきた。しばらくして大将から「そろそろ寿司を握ってみないか」と声をかけられ、板場に立った時、大将が与えたアドバイスはほんの数点、若者が見ても気づかなかった部分のみであった。だが、彼はその後、見違えるような大物の寿司職人へと成長を遂げた。なぜ、わずかな助言だけで男は大成したのか。答えは明確である。彼は大将や先輩の姿、手さばき、現場の空気を骨の髄まで観察し、「感覚」を自らの中に溜め込んでいたからだ。これこそが、私が提唱する「職人的学習法」の真髄である。学校教育における学習の軸は「暗記」と「理解」である。これらが得意な者は試験で高得点を取るが、ビジネスの現場においてはそれだけでは何の意味もなさない。現場で使えない知識はただの無用物であり、いわゆる「頭でっかち」に過ぎないのだ。当社のなかで仕事ができるようになったと評価される社員には、全員が口を揃えて「人の仕事を見て覚えた」「手本を見た」と言う明確な共通点がある。知識を頭に入れることと、それを現場で使えるようになることの間には巨大な溝が存在し、その溝を埋めるものこそが「感覚」である。本質的な能力の構造とは、「感覚」という太い柱を中心に据え、その両脇を「暗記」と「理解」で補強するという形を取らねばならない。中心の「感覚」が育っていなければ、両脇の知識がいくら強固でも使い物にならないのだ。当社が扱う保険や金融商品、多様な働き方の習得においてもこの原則は完全に一致する。マニュアルを暗記・理解するだけでは実務力は身につかない。優れた先輩の手本を見、盗み、実践を通じて己の「感覚」へ落とし込み、その上で暗記や理解と調和させていくプロセスこそがプロへの最短ルートである。だからこそ、当社は採用や評価において、経験の有無、年齢、性別、学歴といったものは参考情報に過ぎず、最重要項目とはみなさない。我々が最も重視する大きな基準が、「職人的な学習法ができるかどうか」である。人の仕事から手本を見出し、自らの感覚を研ぎ澄ませ、知識を実践力へと変換できる人間こそが、これからの時代に真に活躍するプロフェッショナルであると断言する。(10/10)
- 人手不足が引き起こす最も恐ろしい惨事は、単なる人員不足そのものではなく「組織の役割の決定的な歪み」である。現在我が社では、社歴の浅い若いスタッフが担うべき基礎業務の穴埋めに、本来未来を拓くべきベテラン社員が追われるという極めて深刻な逆転現象が発生している。かつて後輩や部下に引き継いで卒業したはずの業務を、長年離れていたベテランが改めて勉強し直して処理し、彼らにしかできない高度な判断や将来の仕込みが放置されたまま日々の雑務に埋もれていく。これは例えるなら、広大な土地を耕すための大型ブルドーザーでただのドライブを楽しんでいるようなものであり、組織における圧倒的な能力の無駄遣いにほかならない。本来私たちが最も多くの時間を投資すべきは「第2領域(緊急ではないが重要な業務)」である。しかし現実には、社内外からの無用な割り込みや目の前の「第1領域(緊急かつ重要)」の火消し、そして利益を一切産まない「第3領域」の雑務に明け暮れ、売上や利益を生み出す本質的な時間が激しく削られている。私自身はこの異常な悪循環の構造に強く抵抗し、意識的に第2領域を重視しようと試みてきた。しかし、私が踏みとどまればその分だけ現場の他の優秀なベテランメンバーが第1領域の火消しに忙殺され、一人また一人と疲弊していく。かといって社長である私が現場の穴埋めに飛び込むのも決定的な間違いだ。私が成すべきは単なる現場の火消しではなく「この問題を至急解決する持続可能な仕組みを作る」という、第1領域と第2領域の境界線上にある構造改革にほかならない。有能なベテラン社員を絶対に疲弊させず、全員が本来持つ卓越した能力で売上と利益を爆発的に叩き出せる環境を取り戻すことこそが、社長である私の絶対的な責務だ。私自身が持つ稼ぐ能力をフルに発揮する機会が奪われている現状には強い焦りを覚えるが、この負の連鎖は今日限りで完全に断ち切ることを約束する。無駄な雑務の徹底削ぎ落とし、ベテランによる穴埋め作業の即座禁止、そして構造改革の超高速推進により、全員が本来持つ最大火力で業務に挑み、正当な成果を叩き出す強靭な組織へと即刻脱皮する。(10/7)
- 失敗の連続と、わずかな成功。その繰り返しの中で、私は会社と人間というものの本質を少しだけ掴み取ることができた。便利さは、人を容易に退化させる。AIの登場によって、人は思考する負担から解放された。しかしそれは、自らの頭を使わなくなったということと同義だ。自動車に乗れば歩かなくなり、足腰が衰えるのと同じ原理である。楽な道を選び、重力に逆らうことをやめれば、人間の能力は確実に退化していく。かくいう私自身も例外ではない。スタッフを頼り、業務を任せる中で、かつて自分自身が発揮していた個人の能力は明らかに低下した。今さら昔と同じように立ち回ることなどできない。では、これは単なる衰退なのか。答えは「否」である。「人に任せる勇気」を持ったこと。これは、経営者としての確実な「進化」だ。人は何かを手放すことでしか、新たな能力を獲得できない。人間とは常に、どこかが退化し、どこかが進化している生き物なのだ。そしてこの進化は、我々に二つの大きな武器をもたらす。一つは、「相互依存」という真の強さだ。何でも一人で完結できる自立した個人は一見強く見えるが、所詮は個人の限界を超えられない。真に強い組織とは、己の退化した部分や弱さを互いにさらし出し、補い合うことで、個人では到底到達できない高みを目指す組織だ。私がスタッフに任せ、頼るようになったのは、この強固な相互依存のネットワークを築くための必然的なプロセスだった。もう一つは、「今よりも高い、別の力」を発揮することだ。AIなどの便利なものが、我々のこれまでの思考や作業を肩代わりし、ある部分を退化させたのは事実だ。だが、それによって生み出された思考の余白や時間は、決して楽をするためにあるのではない。我々は、便利な道具に頼った分だけ、これまで手が回らなかった、より高次元の力を発揮しなければならない。問題は、便利さという変化をどう捉え、どう使うかである。世の中の多くの者にとって、便利さはただの「退化のトリガー」でしかない。楽に流され、自らを弱体化させるだけで終わる。自らが今、楽に流されてただ退化しているのか。それとも、他者との強固な相互依存を手に入れ、便利さが生んだ余力を使って「今よりも高い別の力」を発揮しようとしているのか。この境目を冷徹に自覚し、意識し続けること。それこそが、低迷と迷走の時代において決して迷子にならず、組織として高みへ挑み続けるための決定的な条件である。(10/3)
